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天竺の貴婦人
いったんホテルに戻って、シャワーを浴びて着替えると、ドライバーは約束の5時に迎えにきました。急きょ、風さんと一緒にご自宅へ向かうことになったそうで、ふたたび風さんのオフィスに戻りました。私たちが階段を上ってゆくと、なにやら上階の空気が華やいだ感じです。入り口の手前から、風さんがいつもよりちょっとうわずった声で話しているのが聞こえてきました。「だれかお客さまかしら?」とささやきながら入ると。
 
風さんは私たちがフォーマルな白木綿の服装で現れたのを、少しびっくりして「とてもすてきだわぁ」と誇らしげに、周囲の注意を引きつけるような口調で褒めました。濃緑の地に金のブロケードのサリーを纏った貴婦人が、振り向きざまに、瞳の奥に知性漂う微笑みを投げかけました。天竺の女性の年齢を推察するのは難しく、50歳くらいでしょうか。滑らかな褐色の額から、黒い髪がウェーブを描くように卵形の頭にぴったりと撫で付けられ、うなじへと流れて三つ編みにされ、かんざしで纏められていました。
 
肘から細い指先へかけてなだらかな腕の、手首かとおぼしきくびれから、幾重もの細い金の環が重なり合ってきらめき、動けばシャラシャラと涼しい音色を奏でます。私は釘付けです。伴侶も私と同様、ぴたりとこころが留っている模様。はっとして、我に帰って「こんにちは」と私、同時に「こんばんは」と伴侶。ご婦人はこちらへ手を差し伸べて、しばらく私たちの眺めを楽しんでから、ふたたび風さんと話の続きをしました。
 
そして窓辺の棚からフォークロアのアンティークの小さな袋を取り出して、鏡の前でポシェットのように下げて試してみます。どうかしら? と鏡に向かってあれこれとポーズをとって確かめています。そうして「これをいただくわ」と。なんとすばやい判断でしょうか。もう自分のことはよくわかっているって貫禄です。伝統的な絹織物と、小さな白い貝がらを縫い付けた古民芸の組み合わせは絶妙で、非凡なセンスがきわだちます。
 
婦人が会計を済ませて立ち去ったあとのオフィスは鎮まりかえって、私たち3人は充実した一日の終わりをしみじみと噛みしめながら、いよいよ今宵の晩餐へと向かいます。車中「あのかたはどなた?」と尋ねてみました。「大学の教授の奥様よ」と風さん。「すてきねえ、あんな雰囲気の人は今まで見たことないわ」。しきりに感心すると「街では歩いてない……いつも車で移動するから」と得意げに風さん。そういうことですか。