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ぐんぐん伸びで留まることを知らず
diary photo  友だちの家に3人目の孫、2970gのお雛が誕生した。雛祭りを迎えるように生まれてきた赤ちゃん。このところ、彼女のインスタにお雛様ばかりアップしていたので、いつもと違う感じがして、これは何かが起きているなという予感はあった。曰く、この時期にあって産院への見舞いもままならず、若夫婦がおひな祭りを準備するのも大変だろうと、ばぁばの優しさでした。
 そろそろ桃の蕾も膨らんで、景色が生命の息吹をムンムンと発してきた。人間の活動が少なくなるにつれ、自然の営みが生き生きと輝くのは皮肉なものだ。その論より証拠が我が家のコンテナガーデンに。実はこれはスープセロリの実生なのだが、去年の春に蒔いて、イタリアンパセリと区別のつかないほどの苗のおおかたは夏に摘んで食べてしまったのだけれど、花壇の外に落ちた一粒の実から出た小さな苗を夫が植えておいたら、もうジャックと豆の木どころではなく、ぐんぐん伸びで留まることを知らず、it helps for the perception of my power and the strength… 冬の寒さを耐え忍び、今春まで生きながらえて、まるで樹木みたいだ。

3月10日
diary photo  昨日は鉢植えのレモンの木のうちの1本の、葉が全部枯れてしまったので、夫が土の中にカナブンなどの幼虫がいないか調べた。カミキリとかカナブンとか、この辺りではちょっと油断をすると植木鉢の土の中に卵を産むので、枝がなんとなく元気がなかったり、葉が枯れたりした時には、まず幼虫を疑って土を全部出して調べる。どんなに成長した木でも発見が遅れると、根を食べられて枯れてしまう。防護の覆いをしていても隙をつかれるのだ。
 熊本はとにかく虫が多いので、まずそれを疑っていたら、レモンには虫はいなかったそうだ。去年はティーツリーの木の根が虫に食われて枯れてしまった。山椒の木も半ば枯れそうだったが救われた。春の雨に打たれて弾き、射るような夏の陽にうなだれ、秋の台風に煽られてなおしなやかに動くは、大いなる示唆に富む。植木鉢といえど木の放つかすかな匂いはどことなく頼り甲斐あって、心より添う。
 生命の木という呼びかたに象徴されるように、空に向かって伸びる枝が四方八方に広がり、新しい芽が出て葉が繁茂して地上を覆う時、辺りの空気が浄化される。

3月10日
diary photo  春というのはイメージはいいけれど、朝に夕に冷えて冷えとして、晴れれば汗の滲むほど寒暖の差の激しいこの時期を、冬に慣れてしまった体にとって、決して過ごしやすくはない。
 春よ来い、早く来い、と待ちわびるのはみよちゃんだけか。それでも外を歩けば、もう川のほとりでは桜も5分咲きくらいになって、花雲のトンネルの先まで眺めれば、この景色を見たのはつい、昨日のことのように思えるのだった。
 あれはもう1年も前の春だったかと驚きを隠せない。どうして時間が経っていない気がするのだろう。ああ、そうか、去年の春からはほとんど家の中で過ごして、週に一度の買い物に出る以外は数えるほどしか外出しなかった。
 例年は土手の水仙が咲いた後に、桜の蕾で木々がほんのり赤らむと、やがてちらほら花びらが見えて、という順番がすっぽり抜けて、いきなり五分咲きでは調子狂う。人間の記憶ってそういう風に刻まれるのかと不思議な気持ちになった。
 自然は何も変わらないように見えて、コロナ以前の景色とは全く違う。自分の思考も、滑らかに受容体然として、すべてはなるようになるって思うようになった。