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門の外
つかの間の、朝の冷気にふれたくて、中庭を通り抜けてロビーへ出ました。コンセルジュデスクに見覚えのある女性が坐っていたので、あれっ? と狐につままれたような心持ちでいると、私たちを見て満面の笑みをたたえ、昨夜の子鹿みたいな印象がよみがえってきました。渡された観光地図を広げれば、ものすごく簡単なロードマップに名所がいくつかあるだけ。この周辺の地図はないそうです。だれもそんなところへはいかないか。
 
「車を呼びましょうか?」「いえ、けっこう」。私たちが徒歩で出かけようとするのを、ドアマンたちがちょっと心配げに見守っています。ゲートを一歩踏み出せば、むせ返るような熱気と人びとの数の多さに圧倒されます。少し歩調をゆるめたり、目を合わせようものなら、すぐに近寄ってきて憐れみを乞う手が伸びてきます。柳の枝のようにか細い指先は、私の衣服に触れやしまいかと、すんでのところで隔たりを保っています。
 
ゆくてには上半身裸の男が石畳に横たわり、さらに犬も並んで横たわって。ふと男が寝返りをうつ。ああ、びっくりした。その先でやせこけた犬のあばら骨がかすかに上下する。「日陰で寝ないと焼け死ぬよ」。伴侶がつぶやくと、犬は薄目を開けて尻尾をパタンと打つ。私はその尻尾を踏まないように迂回して……どのくらい歩いたでしょうか。菩提樹の陰に人が群がり、大鍋にダル豆を煮ています。スパイスと揚げ油と果物と、あたりにはいろんな匂いや音がさんざめき、そろそろ昼どきかしら。これといって面白そうな店もないし、太陽は天頂にいて、じりじりと照りつけるので「引き返そうか」と。
 
昼過ぎにはホテルへ戻り、ふたりとも中庭でおとなしくビールを飲んでいました。すでに宿泊客は出かけて、だれもいなくなったプールサイドに広げられた白いパラソルは、まったき平和の世界を象徴しています。この美しい建物を隔てた先に、ぜんぜん違う世界が存在していることを……この世の成り立ちや自分の運命を……ここにいると日に三度は考えてしまいそう。「変わらないね。あのころと」。私たちはかつて、天竺を訪れたことがあります。そして今ふたたびここにいて……摩訶不思議な状況に遭遇しており。