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どうすればこのようなセンスが
 ジャンムー・カシミール州はインドでも特別な地であり、気楽に旅するところではないかもしれない。歴史的にも地勢的にも、この地をめぐる内外の紛争が絶えないために、今も人々は緊張した日々を送っている。私たちが10年くらい前に訪ねたときも現地の友人が絶えず私たちの行動を見守ってくれていた。
 いっぽうで、ヒマラヤに囲まれた峡谷の厳しく美しい自然のなかで育まれた工芸は、並外れて洗練を極め、昔から世界の羨望の的だった。diary photo
 この一幅のパネルにした布は、カラムカリに使われているものと同様の、やや厚手の平織りの木綿地に、カシミールの植物で染められた7色の毛糸を、尖端に鈎の付いた針で引っ掛けながらステッチするフック刺繍が施してある。
 蔓やイチゴ、花々や木の実、木の葉といった、英国趣味のモチーフを大胆に配して、実際にヨーロッパのインテリアデザイン向けに作られる反物なので、よく観察するとパターンが繰り返されているのがわかる。
 地の色が臙脂と生成りの2種類がある。実際にこうやって掛けてみると、狭い部屋の一角にパラダイスが all the colors of the light, chase a rainbow 無限の奥行きで広がる。
 カシミールの工芸に触れるたびに「どうすればこのようなセンスが?」と尋ねれば「この地の厳しい気候と美しい自然がそういうものを生み出す」と答える。

2月10日
 カシミールのショールをじっと見ていると引き込まれるようなエネルギーを感じる。その熱源はおそらく凝縮され蒸留された芸に宿るものだろう。
 ナポレオンがフランスへ持ち込んで以来、18世紀から19世紀にかけて、リヨンを中心に織物の技術が急激な進歩を迎えたのも、ほんの一握りの貴婦人たちしか身に纏うことのできなかった希少なカシミールショールを、多くの人々の熱狂に応えるために、それにそっくりの織物を大量に作リたいというのが原動力だった。
 フレンチショールと呼ばれる有名なジャカード織がそれである。 diary photo
 古いカシミールショールをたずねると、出会う一枚ごとに美しい織物の技法を求めて飽くなき修練と研鑽を積んでいた形跡が見て取れる。多色の糸を綴じながら薄く透ける文様を織出すカニの技法と、指先から宝石がこぼれるさまに喩えられる緻密な手刺繍は、その双璧といわれる。それらを時代別に詳しく記した資料もあるが、実態はそんな知識やジャンルからはみ出たものが多い。
 これは織物に見られる文様の典型だが、刺繍である。よくよく観察すればボーダーをはぎ合わせてあるのが判る。カシミールショール全盛の時代には、当然値段も高騰し、完成した一枚ものには高い税金が課せられたために、分業してパーツを作り、最後に集めてはぎ合わせる、その専門の職人がいたという。
 見聞きすること何もかも極限に迫る、仰天の旅だった。

2月20日
 春とはいえど、今月のうちはまだ油断ならず、身を切るような寒さの日がある。そんな天候でもクインテッセンスを訪ねてくれる客人には、Kashmiri Khawa(カシミリ・カワ)を供してみる。身体と精神に深くしみわたるスパイスと高原の茶湯の心地よさに、しばらくすると頬がぽっと赤らんでくる。冬にカシミールの人々のお宅へ招かれると、必ず勧められるお茶だ。
 乾いた風が肌を刺すようなヒマラヤのふもとで、身も心も温まるもてなし。その一瞬の、温度と味わいと香りをきちっと再現できるよう、五感に刻んでおいた。diary photo
 カシミールの茶葉はどちらかといえば緑茶に近い。お茶を入れて、シナモン、カルダモン、クローブの香りを抽出して加える。そこにサフランと砕いたアーモンドを浮かべ、最後に砂糖か蜂蜜を好みで加減して飲む。家庭によっては、アーモンドの代わりにピスタチオが入っていたりする。
 一緒にクッキーが盆に盛られ、花や木の葉、木の実のような色も形もさまざまだが、新鮮なバターと卵と粉の焼き加減は軽くて飽きない。どの家庭でも同じ味がしたので、おや不思議と尋ねたら、毎朝クッキー専門店に買いに行くらしい。
 旅をした世界のあちこちで、ほんのちょっとしたもてなしに感動し、癒されたときの味わいを思い出しながら日夜研究しているところだ。私は今、熊本にいて、此の地でとれた素材を基礎に、身も心も癒されるほんの一瞬を供しようと。
 かつて旅人だった自分がもてなされたように、訪れるだれかをもてなしたい。