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私たちはそのことをすっかり忘れていた
 また今年も胡蝶蘭がちいさな花をつけた。我が家にはいろんな花が咲くけれど、やはり丸みをおびた花びらの、ジョーゼットのように白く透き通る気品は格別で、もう20年以上もの月日を共に過ごしてきた。東京で育て始めたことの成り行きは、自著「ちいさな生活」にイラストとともに記しているが、うち捨てられて絶えようとしていた命を、拾ってきて救ったものだから、感慨深い。
 右の胡蝶蘭はファレノプシスという名だが、ひと鉢では寂しかろうと、園芸店に通っては左のパフィオペディラムやハワイアンウエディングソングを買ってきた。
 蘭たちにはさらなる運命が待ち受けていた。じつは、東京から熊本へ引っ越してきて、最初の一年は慌ただしく過ぎていって荷物の整理もままならなかった。diary photo
 翌年の春に、ふと未開封の段ボールのなかから声が聞こえたような気がして、テープをはがして覗いたら、最後にあわてて詰めたとおぼしき蘭の数々を発掘して、それはそれは驚いた。私たちはそのことをすっかり忘れていたのだった。
 ごめんね、ごめんね、と言うだけでおろおろする私。ほぼ枯れてしまったかに見えた蘭の鉢々を、我が園芸部はあきらめずに手当てを続けること一年。
 その甲斐あってさらに翌年の今頃、We may all stay in May. どれも見事に息を吹き返した。その摩訶不思議な生命力を眺めつつ祝う復活の日。

5月10日
 どこへ行っても誰をたずねても、無上のときめきは誰かのプライベートコレクションを垣間みたときである。旅先から持ち帰ったあれやこれらが誘う、さながら審美の標本からは、その人の小宇宙を覗くことができる。
 1970年代のフランスのファッション誌に、有名な馬具を作る職人たちの仕事場の風景と、そのオーナー夫人のコレクションを紹介した記事があったのを今もとってあるが、いつ眺めても胸が高鳴る。インドへ旅した時に集めたと記されていた銀細工を施した巻き貝は、自然と手工芸が融合して不思議な魅力を湛えていた。 diary photo
 シャンク、あるいはコンチという。もとはヒンドゥ教の儀式に使われる道具で、法螺貝のように吹いてブオーッと鳴らせる。クインテッセンスのディスプレイ窓に配してみたところ、この貝のコレクターという人たちから、もしや左巻きの貝をお持ちではなかろうかと、熱心な問い合わせがあった。普通は右巻きで左巻きは希少らしい。知らなかった。
 宝石のような貝細工も、はるばる日本にきたところ、細工の美しさなど気にも留められず、右巻きや左巻きの話ばかりで、さぞ面くらったことだろう。

5月20日
 地震で思わず皆が家の外に飛び出した夜以来、お向かいの老夫婦の暮らしを注意深く見守ってきた。終の住処も半壊して大規模な修復が必要となった。
 やっと工事が始まると、日に日に憔悴してゆく奥様を誘って二人並んで、修復の様子を見つめていた。家が立ち直ればもとの暮らしがまた戻ると夢見て。
 工事は終わったが、奥様は容態が急変して入院した。残されたご主人は見舞いに明け暮れ、会えば奥様の話になり、ぽろぽろ涙をこぼす。いけない、このままではご主人がだめになると危惧していると、病院からも同じことを注意されたそうだ。
 震災1年目を過ぎ、気晴らしに、若い頃から趣味だった釣りにでも行くかなと言い出した。朝、道具を準備しているとき声をかけた。何を釣るの? へらぶな。うっかり見舞いの日を忘れることがある。はは、いかんな、と笑うので、ほっとした。diary photo
 冬に、東京時代にお世話になった建築家に再開した。彼は90歳にして今も現役、震災後の復興計画のために熊本を訪れられて、以前よりもぐっと親しくなった。昨夜も、震度4クラスの地震がたびたびあるようだけれど、ニュースは熊本県熊本地方としか伝えないし、いったいどうなのかと心配で、声を聞きたくて電話してみた、と。
 私はもう、いつ起きるかしれないことに怯えて暮らすのは止しました。どのように過ごしても一日はあっという間に過ぎてゆくので、できる限り身辺をきれいにして、朝は美味しいコーヒーを味わって、花を一輪挿して、と答えた。
 はは、あなたは何があっても大丈夫だと信じてるけどね、僕もほっとしたよと。