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日が改まると、ついでに気も改まるようで
 朝起きてドアを開けたら、東の空に重くたれ込めた雲間から日の光が差してきて思わず、「わあ、きれいな光」と叫んでしまった。そしてすぐに部屋に引き返し、窓から西の空を眺めれば、天をふさぐ雲の下、帯状に青空が広がっている。
 これぞ台風が去ってゆくときに描く独特の空模様だ。昨日までの心の暗雲も嘘のように澄み渡り、まさに台風一過といった気分だ。 diary photo
 今年は10月になって大型の台風が2度もやってきて、その都度振り回された私たちは、まるで台風一家だった。数日前からその進路予報に一喜一憂しながら、直撃しないだろうか、やっぱり風よけをしておいたほうがいいだろうと奔走し、友人に会う約束もままならず、接客も先延ばしになってしまうほど慌ただしい毎日だった。
 11月に日が改まると、ついでに気も改まるようで嬉しい。そろそろショウルームのディスプレイなど変えてみようかしら。そう考えたら心にふわっと温かいものが降りてきて、部屋の隅にあった置物を抱えては、これとあれをこうしてと想像し、クロゼットの扉の向こうに積み重ねた箱を開けては、懐かしいオブジェが顔を出し、see the matter in a new light. それにまた刺激を受けてアイデアがわいてくる。なんだろう、どうってことないものが、今にしてあらたに巡りあえた特別のもののように迫ってくるこの力は。

11月10日
 ふたつの植木鉢で育った唐辛子が真っ赤になってきた。そういえばこの間、英国から訪れた友人を誘って、15年ぶりに旧知の茶房『玉蘭』を訊ねてみたら、布で作った赤唐辛子を花綱にして玄関に飾ってあった。昔のまま、何も変わらず。無事の再会に感謝した。友は、ずっと変わらないってすごいことだよねと言う。
 中国では赤唐辛子は魔除けの装飾らしい。クインテッセンスのディスプレイにひとつ欲しいなと思っていたら、我が園芸部は根元から一株抜いて、気前よく渡してくれた。このまま飾っておけば葉は落ちてしまうけれど、実はますます深紅に熟して枝ごと乾燥するよと言いながら。なんと、大きな実が3つもついている。 diary photo
 空間によって印象は変わるもので、ここではまるで感謝祭みたいになった。インドのジョドプールで手に入れた鶏のオブジェは東京にいた時も、熊本へきても、ずっと窓辺に置いていたので、ずいぶん日に焼けて、塗料がはがれて出た錆が、もとの表情にニュアンスを与えている。金箔の皿と卵を添えたら、窓から差し込む光を受けておごそかに輝いている。朝日のなかで、夕日のなかで、息吹くように。
 これから日ごと寒くなって、外では木枯らしが吹いても、クリスマスからお正月へと室内は暖かい雰囲気に包まれて、心が凍てつきそうなときも救われるようだ。
 魔除けって、じつはそういうことなのかしら。

11月20日
 先月以来探し続けていた夜の香りは、すぐ近所の公園から漂ってくることを夫が突き止めてきた。朝のコーヒーをデッキで飲んでいる時に「そういえば、あそこに金木犀の木があったよ」と。「あ、そう。あんなところから」と感心つつ、ふと実家にあった銀木犀のことを思い出した。記憶の銀木犀は夏が終わって、秋が来るよという合図に毎年白い花をつけて、金木犀より微香でエレガントだった。diary photo
 それはむかし、私の誕生を記念して父が玄関の脇に植えたという話を夫に語った。紺の腹掛けに半纏を着て、年中庭の世話をしに来ていた植木屋さんは親戚のおじさんだった。縁側で煙管を吸っていた姿が目に焼き付いている。木犀はほうっておくと高く高く伸びるという。花をすぐそばで楽しめるよう、大きくならぬように剪定して、丸く刈り込んで、どこか西洋風情のすてきな樹形をしていた。
 もう今は、ない。震災のずっと前からなかった。昔の風景を思い出すと寂しくなるので、この頃は忘れようとつとめてきた。 折も折、ホームセンターの帰りに待ち合わせた場所に、銀木犀の若木を入れた袋をぶらげて佇む夫の姿があった。あ〜あ、そういうことする人なんだ。背後の私に気がつくとニコッと笑って「金木犀はたくさんあるけど銀木犀はなかなか見ないね」という。「うれしいなあ、ありがと。ずっと欲しかったの」。
 そしていつかはクインテッセンスの玄関脇に銀木犀を植えたいと。