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人の手の計り知れない
 先週末は、東京でお世話になった建築家が熊本震災復興にむけた調査会で来訪されたので、散会後に私のとっておきのくつろぎスポットへご案内した。最終日は、帰る前に前川国男設計の熊本県立美術館を見ておきたいといわれて同行した。
 いく度か展覧会を見に訪れた場所だが、建築家と一緒だと不思議なもので、集中して建築を見ることができた。視点が変われば映るものも新鮮で、カンバス地に顔料を塗ったような壁、木目の跡が映されたコンクリートの円柱、黒染めの鋼材などディテールに手の込んだ仕上げを発見するたびに気分が高揚する。それら全体が醸し出す妙味は、作家のお人柄というよりほかに形容のしようがなく、時空を超えて、前川国男の人間性をぐっと近くに感じる。おかげで良い時間を過ごせた。
 ものを作る人の頭の中のイメージを、表現してゆくときの試行錯誤や執念みたいなパワーを、私たちは作品から感受してしまうのだろうか。diary photo
 スケールの大小に関わらず、たとえば旅先でこんなに小さな魚のピアスに出会ったときでさえ、底知れぬパワーを感じた。今でも拡大鏡を手に取って、人の手の計り知れない繊細さや緻密さに目を見張る。Perfect for gathering and just the right size in possition. 眺めるたびに新しい発見があって、何度見てもいつまで見ていても飽きることがない。

3月10日
 インテリアを依頼されたときは、要求に応じて機能を持たせた収納はほとんど造作して、空間に一体化させる。だから家具は、そこにひとつ加わるだけで部屋の調べが変わるようなものをと考えている。キャビネット、鏡、スクリーン、ベンチなど必要に迫られた折々に選んだり、探しても見つからないときはデザインする。
 さらに人が加わると、家具はそこに登場する人物との関係でイメージも変わる。沈思黙考、作業、語らいと、いろんなかかわりかたがあるけれど、人と家具と空間がそのときどきに違ったメロディーを奏でて興味深い。diary photo

 ときにこのインドの古いベンチは、砂漠で荷を運ぶ駱駝の骨とチーク材でできている。ショウルームに入ると誰もがこれに腰掛けたがる。ひとりなら荷物を置いて、二人ならカップルのように並んで、三人並んだら教会のミサか、公園の木陰のもとで休む家族のように、ずっと前から自分の位置であったかのように。
 そしてその装飾を指でなぞりながら由来を尋ねられる。全体に施された象嵌の細工は、更紗のように、木版で板に下絵が描かれ、色で捺染するかわりに彫って、凹みに骨を刻んで嵌め込んでゆく。このように伝来の木版は、布から家具、そしてアグラにある霊廟タージ・マハルの大理石の文様のように、建築をも覆い尽くす。
 小さな道具と人の手による増殖と、ありとあらゆるものが可能となる証しだ。

3月20日
 春分の日、昼夜の長さが同じになる時を境に、人の身体や考え方も暖かさとともにのびやかになってゆく気がするこの頃、すぐ近くを流れる小川の土手にも、いっせいに水仙の花が咲いた。水仙を見るたびに、私のリビングデザインセミナーの最初からの聴講生だったひとりのイメージに重なる。
 もうかれこれ20年以上のおつきあいになる。彼女は東京•西新宿で運営していたショウルームにも毎週のように訪れて、そのたびにインドの織物や旅の話をすると、目を輝かせて聞き入っておられたのが印象的だ。
 その彼女が、ただ今ご主人とともにインドを旅行なのだ。旅するのに一番いい季節に、しかもヒンドゥの春祭ホーリーのまっただ中に到着予定だから、ターメリック色やブーゲンビレア色の粉をいきなり顔に塗られたりして、さぞやびっくり仰天の連続だろうと、想像しただけでニンマリしてしまう。 diary photo

 初めての国だから、楽しみとともに不安もつのると、出発前に持ち物のアドバイスを求められた。それこそ今まで時間をかけてクインテッセンスで集められたショールやカディコットンの刺繍のシャツ、更紗のロングクルタの出番です。小さくたたんで持ち歩き、自分で簡単に手入れができて、軽く薄く重ねて優雅に、どこへ出ても大切にもてなされるように旅の粋を集めたものだと伝えたら、ハイッと。
 ああ、来週末には聞ける土産話を、今からドキドキして待ちきれない。