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大切な一年の香辛料を賄う
diary photo  熊本へ来て最初に出会った感動は大きくて真っ赤な唐辛子だった。我が家のデッキから見える山の向こうで栽培していたその唐辛子は今までに体験したことのないいい香りがして、唐辛子って辛いだけじゃないんだねと開眼させてくれた。が、震災後は市場から消えて、今ではウエブ情報もなくなっていた。
 生きたものは毎年同じ味わいを得られるとは限らないので、ずいぶん以前から、美味しかったものは種取りをして、手元で栽培できるように保存していた。赤い唐辛子と出会ってこのかた、唐辛子仲間もできて、旅のお土産にもらったりして。
 今年もそろそろ芽出しの季節がやってきた。去年とった種はすっかり虫に食われて、たったひと粒しかない。それにカシミリ・チリとブータンのチリとハラペーニョの種も芽出しを試みていた。ところが発芽したのは熊本産がひとつ、ブータンのチリがたくさん、それ以外は出なかった。今年の収穫やいかに。植木鉢からちぎったわずかの収穫物を酢漬けにしたり乾燥させたりして、大切な一年の香辛料を賄う It’s one and only; you’ve never seen, will never meet …まさに魔法のひと振り。

3月10日
diary photo  世はいよいよパンデミックの様相を呈して、あたりは人影もまばらだが、朝なに夕なに忠実な飼い主を伴った犬の散歩だけは見かける。今どきは不要不急の犬がひとりで歩いていることは滅多になく、どんな猛犬でもリード付の誰かのペット。怖いことはない。
  私の小さい頃、自分の犬とは心通わせても、見知らぬ犬は恐怖だった。当時は泥棒よけの役目もあり、吠えない犬は役立たずとバカにされ、門へ出て見張りのようなこともしていた。ときどきは野良犬にも出くわした。犬は目が合うとくんくん嗅ぎ回ったり吠えたりするので「そこにいるなんて知らないよ」ってなそぶりで、うつむき加減に反対側の塀を添い歩きしつつ、脅威を凌ごうと。鼻先をやおら通り過ぎたるや一目散に走り逃がれ、もう大丈夫だろうというあたりで振り返る。
  たいていは遠くの方できょとんとしてこちらを見ていた。なかに、気の小さいのがわめきながら追いかけてきたり、振り向いたら真後ろに迫っていたなんてときには、腰が抜けそうだった。からかっているのか、逃げると追いかけるのは本能なのか、あのとき転んでいたらと思う反面、子どもを襲いはしなかっただろうと。
 犬はおとぼけ者、人間との絶妙な距離感をこころえて生きている。

3月20日
 インドでのものづくりのパートナーの生家を訪ねたら、彼女が幼い頃に遊んだ小屋と、彼女が生まれるずっと昔、ご先祖さまが敷地に植えた大樹の懐に、ご両親が作ってくれたというツリーハウスのある庭の風景に遭遇した。小屋のペンキは補修して幾度となく塗り替えられ、壊れそうなハシゴも魅力的で。diary photo  私たちは子ども時代にマーク・トゥエインの「トムソーヤの冒険」や「ハックルベリーフィンの冒険」を読んで、まだ見ぬ世界への冒険にやたらと心をかき立てられた世代だ。木の枝の高みから、紙を黒く塗って丸めた望遠鏡を覗けば、ややっ、何者かが近づいてくる、そら隠れろ、とハックルベリーフィンになりきった。
 そんな話をしていると、ご両親がこしらえた世界は、彼女にイマジネーションとユーモアにあふれるセンスをもたらしている気がする。親にとっても可愛い子どもが今にもそこから飛び出してくるかのような、庭は幻想に満ちている。古き良き時代をプリザーブしたまるで絵本の1ページみたいで…古き良き時代とは、だれも皆それぞれにある、自分の生きた時代のグラフィティを思い描いて言うのだろう。
 ふるびた庭の片隅のちょっとした暗がりに、苔むした庭石に、安らぎを感じて。