- 互いの距離を保つこともしかり
夕暮れ時の青深まるばかりの空を切り抜くように建物の影が連なる。このごろは空気が澄んでいるせいか、はっとするようなシュールな景色に出くわす。まるでルネ・マグリットの昼夜共存の光の世界を眺めるようだ。
シュールといえば、超現実的な日常をパンデミックによって体験してしまった。非常事態宣言でずっと自宅にこもっていればやはり世の中は今どうなっているのかと気になって、朝食の前にニュースの見出しを一通りながめずにはいられない。新着記事を読んで気になることや詳細を調べるを繰りして少しずつ自分を取り巻く状況を把握する。刻々と変動する感染者のデータ、医療の壮絶な現場、各国の事情の悲喜こもごも、これまで想像していたよりはるかに厳しい現実だった。
ものごとを知るたびに、自分の立場を認識する社会学への入り口みたいなものだった。互いの距離を保つこともしかり、予期せずそんな非日常を強いられたおかげで、私に限らず多くの人が、連日見聞きする声明文や論評をより客観的に受け止めて …we’ve got a feeling, a feeling something behind the words. 言葉の裏にある綻びをつぶさに感じ取れるようになったのではないかと。- 6月10日
- 熊本でめぐりあったお茶がある。東京で愛飲していたお茶が、あるとき生産地の事情で飲めなくなって、それ以降は奈良のお茶をしばらく取り寄せていた。もちろん九州には八女茶や知覧茶などの銘茶があって、折に触れ試したけれど、毎日のお茶となるともう少しお気楽な感じがいい。昔ながらの釜炒り茶、今もあるかしら。
幼い頃、裏庭の茶畑の若芽を摘んだら、それを大釜で炒って、縁側に藁の筵を広げ、女手で揉んで、家族の1年分のお茶を賄っていた。心探ししているとき、山の温泉へ行った帰りに釜炒り茶を見つけた。いくつか持ち帰って飲んだら、これぞ釜炒り茶と膝を打つ一品は、ひときわ香ばしく懐深い味がした。
さっそく生産農家に手紙を書いて此の方、毎年届き毎日飽きもせず。ところが今年は新芽が出そろう頃に二度も霜が降りて収穫は望めないという知らせが届いた。
こんなことは初めてという。温暖化の影響だろうか、昨日まで当たり前のようにあったものが今日はない。お茶無しでは過ごせないので饅頭抱えて釜炒りの山郷を訪ね、なるべく近い味を調合してもらった。炎天なり。その翌日からオーバーヒートで頭クラクラ、三日三晩眠り続けたあげく、回復したら開口一番…お茶こわい。 - 6月20日
- 去年の秋に知り合って、今年の冬に再会して、春になったら会いましょうと2月半ば、約束した人がいた。前置きせずとも話しはじめればいきなり旅先にいるかのような気分になれる人だった。旅人がロードマップを見せ合うように、私は目の治療を追えたら仕上げたいことがいくつかあって、彼女は春に日本を旅してのちに今頃は、ヨーロッパへ飛び立っていたはずだった。それがコロナで万事休す。
ご破算で願いましては、ってことに世界が動いた。私たちの運命もコロナに影響されて、否応無しにしかるべきところへと導かれてしまいそう。春はとうに過ぎ去って梅雨に入り、思い出したら急に会いたくなってSkypeで積もる話をした。
今までならば、自分の計画が中断されただけで、落ち込んだり恐れたりしたかもしれないけれど、余りあるほどの時間があったおかげで、あきらめることへの心の整理がきちんとできて、妙に泰然自若としてしまうわねえ。そして予定通りに物事が進まなくとも、急に別の問題が起きても、「本日のお題」と捉えてひとつづつ順番に向き合う。そんな日常になりつつある私たちってオタクなの?と。
この間まで在宅勤務をしていた東京の知人も、家は天国とメールしてきた。