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魔が差したのか、タイムの葉を浮かべて
diary photo
 お昼前に、チキンスープを作った。まとめて煮だして冷凍しておいたストックはジップロックに封されて、ほんとにこれだけで身体が温まるのだろうかと、一瞬疑いたくなるほどにあっさりした、ほぼ透明の塊である。でも大丈夫。チキンスープはこれに塩と胡椒だけを振り入れれば、他に何もいらない。ビーフやポークと違って香味野菜も加えない。純粋な、鶏肉から染み出た味わいは優しくてゆたかで香ばしく、昔から寒い日にチキンスープを飲めば生き返る心地すると言われてきた。
 そろそろ鍋の底からゆらゆらと湯がわき上がってきた。ぐらぐらになるまで温めないほうがいい。スープのうわべを掬いながら塩味を見つつ、ちびりちびり味わえば、えもいわれぬ香りが口の中を泳ぐように通り抜けてゆく。胡椒をふり、ボウルに注ぎ分けた。スプーンで掬って、飽きもせずひと口づつ、半分弱になってきた。
 魔が差したのか、タイムの葉を浮かべてみたくなった。それはそれで清々しい。
 のだけれど、but also be wise enough to know the chidken soup. う〜ん。
 そのままのほうがよかったかしら、とすこしだけ後悔した。

12月10日
 今年は近所のマーケットに入荷した2袋の栗が、数日経っても売れ残って半額になって、そのまま1週間後にはもう見なかった。栗を買ってゆく人は少なくなったということか。栗がかわいそう、そんな気もしたけれど、去年一袋買って、茹でて皮を剥いて、渋皮煮にしたものの、食べきれずに冷凍庫に残ってしまって、さすがに今また作る気にはなれなかった。diary photo
 もうそろそろ渋柿が出て、去年は作らなかったので、この冬は干し柿を作りたいなと思って、近所のいつものマーケットに行くたびに気にしていたら、なかなか出ないので尋ねたら、そういえば去年から来なくなりましたね、と。作っているんでしょうけど、干し柿なんてこのごろは作る人が少なくなったからかな?って。
 食べ物がおいしくなる季節へのこだわりとか、マーケットで年を追うごとに起きている小さな変化とか、当たり前のようにあった収穫物が消えてゆくとか、騒ぐほどではないちょっとしたあきらめの会話とか。
 どれも歳時のかなめの出来事で、この日を境に世のなかはすっかり変わる。

12月20日
 3日連続で零度の朝、足の指で探った湯たんぽも冷えている。薄手の羽毛布団と真綿布団、そしてジェイコブウールのスローと湯たんぽ、寒い冬用の上掛けはこれ以上増やすと重みで息苦しい。去年はこれで乗り切ったけれど、まだ12月でこの寒さだから、1月2月はどうなってしまうんだろう。ちょっと考えなくちゃ。と考えたことは、ベッドのシーツの下に毛布を一枚敷いてみようかと。
 暑さも寒さも極端な気候の土地に来て、避暑防寒の半分は食べ物によって救われている気がする。今年の冬も大根と白菜を欠かさず、大根の擂り下ろしたのに豚バラのみぞれ鍋、鳥鍋にも白菜、白菜に薄切りの豚バラを詰めた鍋を食べて温まる。ふうふう、はふはふ、日本の食文化はすごいねと感心しながら。diary photo
 今年の夏は暑過ぎて夏野菜が高値だった。ところが冬は大根と白菜が大豊作で、でも豊作とは言わず、出来すぎて値崩れで廃棄という映像を見て悲しくてしょうがない。寒に雪のように白くまるまる太ってこれからもっと旨くなる白菜と大根。
 心ががらんとして冷え冷えとした。