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なんかあるんじゃない?

 牡丹が終わると純白の芍薬が咲き始める。牡丹には濃縮された美しさがある。芍薬はふわっと包みこむような優しさがある。似て非なるものだ。とくに純白の花はいい。心が洗われるようだ。今は訪れる人にも静粛のひとときが必要な気がしたので、入り口のドアのそばに鉢を並べた。
 震災の1週間ほど前。鉢植えのコリアンダーはまだ芽が出て間もないのに花を咲かせようとしていた。「あわてて花をつけるなんておかしいね。」「いつもクインテッセンスのデッキで昼寝をしてゆく猫が最近来なくなった。どうしたんだろう?」と朝のコーヒーを飲みながら話していたのを思い出す。なんかあるんじゃない? そう思っても何もしない人間って本当に愚かだねという話を過去にも幾度となくした気がする。これからは小さな生き物のふるまいにもっと注意を払おう。  diary photo 
 そして震災直後の街を歩いてふと気がついた。近所の植木鉢や花壇の草花が一斉に花をつけて、雑草も一雨ごとに青々とはびこって、例年より木の枝につける花の数もおびただしい。そういえば昨日、猫が戻ってきた。もう大丈夫だということかしら。けれど、隣の雀は巣作りを終えて子育てを始めたばかりだったのに、すべてを放棄していなくなった。

5月10日

 私には10年おきくらいに荒波がやってくる。そのときは何が待ち受けていようと心配もせず、先に決断ありきでそれっと波に乗ってみた。今になって振り返れば、新たな局面に入ったからともいえるし、どの波も避けて通れない運命だったともいえる。ともあれ、我が身に降り掛かってくることに何一つ無意味なことはなく、その一つ一つが即答すべき命題、そのとき乗り越えるべき試練なのだと思えるようになってから、自分の運命を愛するようになった。
 もしも問題を棚上げしたり軽んじたりすれば、10年後になぜか同じたぐいの問題が、もっと深刻な状態で降り掛かってくるから不思議。  diary photo   
 Go surfing with opened eyes, ears and mind.どんな日も、いつもの生活をなるべく変えないでいよう。すると、いつもと違うことに気がつく。毎朝デッキに出てコーヒーを飲んでいると、いく種類かの鳥の鳴き声のなかに、今朝は小さく細く鳴く声を聞き分けて「ほら、あれ、チチチって鳴いてるのは雀でしょう?」「そう、でも鳴きかたが違う。前はもっと楽しそうだった。」「巣に戻ってくるかしら?」「今年はもうおしまい。戻ってこないよ。来春はこのあたりに巣箱を用意してあげようか」。

5月20日

 なにもかもが嘘のような震災直後の、心身の興奮状態から醒めて、やや落ち着きを取り戻してきた今日この頃である。身の回りの応急処置は終えて、そろそろ日々のまなざしが戻ってくる。誰かに会えば「早いね、もうひと月もすぎたんだね」「あっという間だったなあ」「そろそろ庭の草取りでもしてやらないと」といったやりとりが聞こえる。
  今しがた散歩をしているときも、垣根の隅に押し寄せられて砕けてしまった植木鉢のなかに、まだ生きている鉢植えがいくつかあって、でも如雨露は壊れて側に転がっており、それでもバケツの水を手で掬っては優しく何度も振りかけているおじさまと目が合って、会釈を交わす。
diary photo  ところでお向かいのご老人はこのところずっと白いシャツを着ておられる。それまでは黄土色系のマドラスチェックのシャツがお気に入りだった。彼が遠くから歩いてきても、姿は夏の光にくっきりとした輪郭を描いて、すぐ見て取れる。
 この間すれ違いざまに「これから夕飯の支度をするので買い物に行くところ」と話しかけられ「毎日はたいへんよねえ」と交わした。ずいぶん日に焼けて、髪もすっかり真っ白になって、それでも襟元をきりっと立てた白いシャツがまぶしい。なぜ白いシャツなのだろうと思ったけれど、聞くのは止した。おしゃれの理屈など尋ねるほうが野暮だろう。自分の置かれた環境の中で今、生きているフィーリングみたいなものが姿勢や態度を突き動かす。
 理屈などない。ただじっと見ているだけで、少しずつ変わりゆく心の向きを感じ取れる。