logo

大地が腹を抱えて笑っている

 「地震、雷、火事、親父とはよく言ったものだねえ」と、熊本地震の夜以来、揺れを感じるたびに口を衝いて出る、この恐ろしいものを順にあげた語に得心がゆく。最初の揺れでキッチンじゅうの道具が床に散乱した。
 その悲惨な状況を解消しようと、夫と二人で明くる日の夜までかかって、破壊したもの、修理可能のもの、と段ボールに区分した。そして難を免れたものをきれいに拭いて、どうにか棚に戻し終わったところで、ゴー、ガッ、ガガンッとふたたび激しくゆすられて、食器が宙を飛び交い、大切にしてきた陶磁器グラスの類はすべて持ってゆかれた。
 一日として忘れる暇もなく、先月末までに身体に感じる揺れは2000回を超えた。diary photo
 この恐るべきエネルギーを足下に感じながら、その破壊力を目にしながら、日々を生きていることの不思議な感覚。作家のアイザック•ディネーセンによると、アフリカでは地震のことを『大地が腹を抱えて笑っている』と形容するそうだ。へその上に暮らす人々はたまったもんじゃないが。
 それでも残ったものがある。棚から転げ落ちたブリキの灯台は、再び揺れて壊れないように、今も床に寝かされたままである。
 そう遠くない日に、本来の姿にすっくとそびえ立ち、夕陽に映えてさながら海辺のような風景を醸し出す。Stand upright and be strong…この体験によって私たちは、はるかに強くなった。

9月10日

 クインテッセンスを訪れる人たちの目を楽しませるために、窓からの眺めをワンダーランドにしたいと、デッキの周辺を額縁のように、ぶどう棚で囲う計画だった。それにはまず、ぶどうの樹を育てることから始めなければならない。
 園芸店で紫色のぶどうオリエンタル・スターという品種と、もうひとつはワインで知られるカヴェルネ・ソーヴィニヨンの苗木を買って、2年前の秋に植えた。 diary photo
 成長が止まったのか、それとも栄養が足りないのか、その年は新芽にお目にかかることもなく、じきに冬がきて、翌年の春になっても生育する様子がない。次の夏が来て、真新しい葉と、くるんと巻いた蔓を見つけて、竹の支柱に絡ませた。秋には鉄柵を作らないと間に合わないかしら、などと危惧していたら台風が来て、雨に柔らかい芽をめったやたらと殴られて、ショックで立ち直れなくなってしまった。
 これは一度養生させなくちゃ、と自宅に持ち帰った時には惨めな枯れ枝のようだった。我が園芸部は「まだ生きてるかもしれない」と頼もしい診断をくだし、植木鉢にふっくらとした土のベッドをこしらえて、1本ずつ植えた。祈るしかない。
 室内で冬を過ごさせて、春にはかすかな芽吹きを発見して歓喜し、今年の夏はほら、まっすぐに天に昇る豊穣の角が螺旋に巻いて、ギリシャ神話に出てくるディオニュソスのコルヌコピアさながらではないか。蔓を見上げながら、クインテッセンスの窓からの眺めをワンダーランドに、という欲望は募る。
 昔も今も庭を造るってそういうことだったのかと天空の彼方に思いを馳せる。

9月20日

 去年の夏に、蓮の華の取り持つ不思議な縁で、古代蓮を育てている人と親しくなった。10年くらい前に福島から熊本へ移住されたそうだ。ご夫婦のリタイア後の愉しみに、山里の休耕田を耕しては、ご自宅の台所用に幾種類もの作物を植え、近くの沼地を開墾しては蓮の池を作っておられる。
 今年も蓮がみごとだから見においでと誘われたのに、いつでも行けるからと油断していたら、瞬く間に明け暮れて、花を逃した。diary photo
 蓮の華のひときわの美しさもすばらしいが、花びらを落とした後の、ラッパのような奇異な形をした蓮の実も、じっと見ていると心が引き込まれる。去年の開花後に茎をオブジェにできないかしらと、なるべく長く刈り取って、アトリエに運んで逆さまに吊るして、その変化する様子を見ていた。
 やがて秋の乾燥した空気に水分が蒸散してずいぶん縮んだものの、うてなのあたりには青の色素が凝縮されたような色を留め、茎はそのまま枯れ枝のようになった。ぱりっとしてきたのを機に、吊るしておいた茎を元通りに天に向けたら、すっくと立って、なかなかの風情だ。
 砂岩の、さながら地層のような景色のものを選んで、それを台座に二本仕立てた。
 クインテッセンスの熊本でのデビュー作となる “Lotus Equation” 今までに制作したオブジェの数々を振り返れば、タワーキャンドル、飛翔のシュロ…どれも天に向かって、まっすぐにそびえている。