- でも嫌いじゃない、この感じ
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昼過ぎからずっと、机に向かって事務作業をしていたら、背中が張るような心地がしたので、深呼吸をしようとデッキへ出た。涼やかな空気を肺の隅々まで送り込んで、背筋を伸ばして身も心も軽やかに、という期待とはうらはらに、ドアを開けたら、まるで吐息のような湿気を含んで生暖かい空気が侵入して来たので、少しめまいがした。
室内にいるうちは全く気がつかなかったけれど、空は曇天、溶かした墨をかき乱すように、雨雲が斑になって北へ走る。これから夜にかけて嵐になるやも、というざわめきがそこいらじゅうに満ちていた。時おり突風が階段を這い上がってきて植木鉢を倒したり、バンと、雨よけの天蓋を破りそうな音を立てる。
「でも嫌いじゃない、この感じ」と空の落ち着きのなさを懐かしむ。遠い昔の記憶に刻まれた風景は、夏のプロローグだった。
デッキの手すりにつかまって背伸びしながら、風に吹かれて雲の流れを見つめていると、真っ向から強風に逆らって飛ぶものがいる。そのクールな飛翔は雀とは違うし蝙蝠とも違う。あ、ツバメだ燕。うわぁ速い。かっこいい。
ヒュン、ヒューン、とその動きに合わせて思わずかけ声が出る。翼の形が違うものね。逆風にやいばを当てるように身をかわしながら方向転換したあとに、胸のすくような滑空… 'there's a place in the sun' 希望を胸に海を渡ってやって来た、今年の燕。 - 7月10日
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梅雨が開けたと思ったら、朝日とともに容赦なく、なにもかも焼き尽くすような日差しが窓を射る。いつもの年なら朝の9時ころまではエアコンを入れずに過ごせるのに、温度計に目をやればすでに30度を超えている。ああ、暑い。「いやはや、今年は暑くなりそうですね」と出会う人ごとに、これからやってくる真夏への互いの覚悟を確かめ合う。
夏にはスイカという強い味方がいる。濃緑の玉を二つに割るときの期待に満ちたときめきがたまらない。ドラマチックに出現する紅の海のようなおおらかさ、おしなべて赤い色した食べ物は、とくに女の人の身体にとてもよい作用をする成分が含まれていると聞く。たっぷりの水分とシトルリンやリコピンやビタミンA、ビタミンC、ミネラルが豊富に含まれていて、熱中症対策も抗酸化作用もデトックスも一手に引き受けてくれる。
スイカはじめはラグビーボールのような形だった。大きいと二人では持て余すでしょう、という心遣いから小さなスイカを今年は頂戴した。
2週が過ぎて、もうそろそろだ。今日みたいなスイカ日和はまたとないでしょうという機に、これ以上我慢できない暑さのなかで、満を持して切った。いったんは白い皿に置いてみたがいまいち月並みだ。思い直して80年代のヨーガン・レールのスパターの皿を出してきて、その上に載せたらカントリー気分になったので、同時代にアメリカを旅して買ったヴァーモント州のポッタリー・バーンの白い匙も添えてみた。いいね。みずみずしいスイカの香りが漂ってくるのを合図に、無言で夢中でひと息に食べてしまった。
半分残したから、冷蔵庫にしまってまた明日も食べよう。 - 7月20日
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先月の終わりに、インドで教わったカレーのシミの解決策を記したところ、同じことで悩んでいた人は多いらしく、よいことを書いてくださったと感謝の便りがあった。じつは、インドを代表する木綿の織物であるカディコットンのことを夢中になって勉強していたあの時に、もうひとつ大切なことを教わっていた。
手紡ぎ手織りの仕事は繊細で、機械織りの布と同じように洗うのはちと乱暴な気がして「布はどのように洗っているの?」と尋ねた。帰って来た一言は「rittha」、私の耳にはリタと聞こえた。西洋ではソープナッツと呼ばれると教えられて、それはどうやら植物の実らしいことは理解した。
それから十年以上も経た今年の春に、ふとリタのことを思い出してインターネットで検索してみたら、あった。販売会社のサイトではリタの育て方まで紹介されていた。早速リタを注文して煮出汁を作り、まずはカディコットン、次にカシミールショール、いよいよエルメスの絹のキャレ、と洗い慣れていった。その洗い上がりのしなやかさと清潔感に感動して、ついには絽の白長襦袢まで洗いあげた。
古代よりインドで高価な織物のを洗うものとして伝えられ、現代でもその恩恵に浴するなんて果報なことだ。
これを縁に、なんとかリタを育てたいと願い続けていたら、奇跡は起きた。リピートで注文したリタの殻のひとつに、除去を忘れた真っ黒の種が残っていた。さっそく我が園芸部に、なんとか発芽させてほしいと預けたら、今年の夏はご覧あれ、すくすくと天に向かって上昇中である。遥かヒマラヤ山脈からやって来たリタの樹は、十数メートルの巨木になるらしい。
果たして日本で育つのかしら?