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昔パリのビストロで
 夏の始まりはいそいそと苺を買いに行く。苺は早春から店頭に大粒のものが並んでいるけれど、あれは誰かのもの。私の苺は今が旬。小粒でかたちも不揃いなのでジャム用に売られている。東京にいたときもちょうど今頃、佐賀県から届く小粒の苺を見つけた時はたっぷり買って、プリザーブにして朝の食卓に出していた。
 これは温室でなく苺畑で取れる。佐賀県には昔ながらの苺農家があるみたい。苺の畑では葉陰と敷いた藁の間から赤い実がこぼれるように成って、毎朝摘まないとすぐに虫や鳥が食い散らかす。けれど雨の日は行けない。味が薄くなるから。
 ちょっと肌寒いような朝早く麦わら帽子を被って、お日様が高くなるごとに暑くなってしまうから、ルビー色に熟した実だけを素早く摘み終える。苺やブルーベリー狩りに行ったなら、その日のうちに洗って水を切って砂糖煮にして瓶詰めにすれば一日がかり。くたびれて涼む夜空には…The moon stood still on my deck. diary photo
 昨日また小粒の苺を手に入れたので、昔パリのビストロで食べたシュクレ・フレーズを思い出しながら、塩で洗って水を切ってへたを取りながらグラスに入れて、上から洗双糖をひと匙振りかけて冷蔵庫に入れておいた。
 ひと晩寝かせて、少し砂糖が溶けて苺の赤いしずくが底に出てきた頃、スプーンでつぶしながら掬って食べる。ちょっと多すぎるかなと思えるが、苺のつぶつぶと砂糖のざらざら感の新鮮さに息も付かず夢中で食べ終える。やあ、夏がきたね。

5月10日
 今年もまた月桂樹の葉を収獲しましたよ…毎年同じ季節に、今年もまた、と親しい人たちに告げることができるのは嬉しい。日々、年々、気候が少しずつ変化するように、色も香りも微妙に変わる。今のところ、此処では春の次に冬になることはなく、春の次には夏と、約束された季節がやってくる。
 今年出た葉を枝から摘んでキッチンへ運ぶ。ボウルに水を張って、塩を溶いて、しばらく沈める。葉の裏も表も丁寧に洗ってあげたら、心なしかあか抜けて、ちょっとしたことなんだけれど、自然のものは手間ひまかけた分だけ確実に応えてくれる。ざるに並べて外の風にしばらくあてて、乾いたら室内で乾燥させる。毎日少しずつ色が変化して縁もだんだん反ってきて、香りも次第に強くたち始める。diary photo
 月桂樹、ローレルとかローリエともベイリーフとも呼ばれるこのひと葉が料理の風味を思いがけぬ素晴らしい次元に引き上げてくれる。フランス•ルピュイ産の緑レンズ豆を水に浸してニンニクをひと欠け入れ、木の葉を一枚浮かべ、よろしくお願いしますと頭を下げたらことこと煮て、上がりに塩をする。ボウルの底にオリーブオイルを垂らした上からレンズ豆のスープを注ぐ。
 今日もまた、最小の労働で最大の効果を得る恩恵にあずかって緑の滋養を摂る。

5月20日
 クインテッセンスの庭のびわの実が、この数日でにわかに色付いた。幼い頃、びわは夏の始まりに、近所の家の塀の外まで黄金の房がこぼれていた印象がある。子どもたちは通りすがりに少し手前より助走をし、房めがけて飛び上がり、手先にひとつ二つの実をもぎ取っては、満足げに走り去った。
 そんなに昔でなくとも、中目黒に住んでいた頃、裏庭には先住の植えたびわの木があって、我が家では食べきれないほどの実をつけた。ご近所や、自分のセミナーへ紙袋にいっぱい抱えて行って、とても喜ばれた。そして塀の外に落ちた実を、明くる朝カラスがついばんでいた。落ちた実が一番甘いと知っている。
 この辺りはいったいに鳥が多くて、青いうちからついばむので、高い枝に成る実は熟す頃には穴だらけ。私たちは遠慮がちに低いところの葉陰の実をいただく。 diary photo
 手をのばし、ひと枝を切り採って、マチルダ•キャロンの皿の上に置いてみた。庭先のささやかな収獲を祝うとき、見慣れた果実や葉の色合いが、バロック様式のオクタゴナルで縁取りされるや、豊穣を象徴する古典絵画のようだ。パリの土で焼いてあるという。なるほど、よく観察してみると白い釉薬の下に透ける黒い土の濃淡が醸す縁は、キャンソン紙にかすれたチャコールのデッサンのように見えてくる。
 私にとっては震災でその大方が壊れてしまった大切な皿たちのうちの生還した一枚だ。並外れて美しいこの皿との運命的な出会いを感じる。