- ちいさく愛らしきものに
- 庭のびわを食べて以来、今年はいつが食べごろかしらと心待ちにしている友がいる。びわは梅雨前にちぎらないと雨のせいで味が薄まるというが、九州は去年よりも半月近く早い梅雨入りで、さあ大変。招待日まであと5日も待たねばならない。
日々実が熟してゆく黄金の房を眺めては、落ちないようがんばってねと願う。それにしても木の実や花が俯き加減に垂れる姿はなんとも愛らしい。
ある日それに目を留めたとき、宝物を発見したような独占的な喜びに包まれて、あら、私だけ、いいのかしら?って、かけがえのない幸運を味わう。
家の外、部屋の中、窓辺からの眺め、ふと視線をやるその先に、その至る所にこのような喜びをちりばめられたらどんなに素敵だろう。
びわの実の色した駱駝の絵のあるこのドアノブもそう。河原でジェムストーンを見つけてしまったときのように、それをいつどのように鏤めることができるかなどといった考えもなしに、ましてやそんな日が果たして訪れるのかどうかもおかまいなしに、光をを拾い集めるように幻惑されて。
もしも私たちの見ている世界が幻覚であるとすれば、ちいさく愛らしきものに心寄せて暮らす体験は、自分との関わりを実感できるもっとも身近で確かな方法なのかもしれない。living with small lovely things…澄んだ時空に身を置く処方だ。 - 6月10日
- ふっくらとして果物のマンゴーにそっくりだからだろうけれど、インドではマンゴーと呼ぶこの形態は、掌にしっくり納まって、かの国の装飾を象る。これを西洋ではペイズリーと親しまれるが、現地の人たちはブテ、とかブータと呼ぶ。
「中に練り香を入れてね、ブテのお守りみたいにペンダントにするも良し、不要になったら売れば身を助くよ。金と銀はお金より信用できるからね」と。いつも古いすてきなアクセサリーを次から次へと見せてくれる宝石屋のおじさんは、冗談まじりに石のことや装飾の由来、金銀を身につける術を鏤めて話してくれた。
旅は不思議だ。あのころの、あの場所の、あのような人々の心には、もう二度と出会えない。次に訪れてたときには、まるで別の世界のように変わってしまって、昔の面影などまるでないのがわかって嘆く。世界のどこでもそうだろう。けれど、旅先で手に入れたものはすべてにおいてプリザーブされる。
ものの神髄はここにあるのではなかろうか。手元に引き寄せて眺めてはその都度、金と銀の張り合わせの絶妙さに、センスいいなと改めて感動し、ディテールの手しごとの精巧さを指先でなぞれば、愛おしさも増す。特に古いものは古いままに、まるで時間の層に覆われたように鈍い光を纏う。
でもある日突然、綺麗に磨きたくなって、ゆっくり磨いて拭いていたら、それがずっと昔、誰かの心を惹き付けたときの感動のままに、シルバーとゴールドの織りなすフレッシュな光が甦ってきた。 - 6月20日
- 私の東京時代の知り合いはみな、一緒にひとつのプロジェクトをしている間は密度濃く働くが、終われば、じゃ、またねとそれぞれの道を歩んでゆく。『ミッション・インポッシブル』みたいに。やがてしだいに疎遠になってゆくのである。
今は熊本にいて、自分のことにいそしんでいるうちにすっかり忘れてしまいそうになるけれど、ある日ふと、あの人の良さが今さらながら際立ってくる。奇しくもめぐりあえた幸運と、すこぶる世話になった来し方をしみじみと思う。
数十年ぶりの電話の向こうでは「おぅ、元気? 今どこ?」と昨日の続きみたい。「素晴らしいお茶を見つけたの。お新茶送ってもいい?」と尋ねてみると「お気持ちうれしいけど、お願い、気を使わないで。ねっ、ねっ」。で、すぐに送った。
数日後、「遠慮させていただいた、途端に!?驚愕のNEW茶到着。ノーブル且エレガントの上に生命力リッチ。こんなお新茶吞んだことな〜い。ん〜ん、謝謝」と送られてきたコピーライトに、あいかわらずだなあ、こころの真ん中めがけてくる。それこそ、このお茶を発見した時の感動と寸分違わず、感心します。
もうひとり。「このお茶にぴったりの和菓子送るから、日曜日の午後3時半、一緒にお新茶会をしましょうね」とは当意即妙有り難し。遠く離れた地で、同じ時間に同じお新茶を別々の場所でいただいてシンクロニシティする。
かように無邪気で他愛なく、ココロの友をときどき思い出したり忘れたりする。