- わが家でも王様を育ててみる
- いつも行くマーケットでは、真夏の到来を知らせるように、ちいさなパイナップルが、日本西南端の八重山諸島からやってくる。もしかして飾り用かなと思った。
そのうちパインの香りが部屋中に漂って、それでも半信半疑のまま冷蔵庫に入れておいたら、ドアを開けるたびにむせるようなパインの香りが漏れ出てきて、なかに一緒に入っている豆腐や和菓子が香りに染まってしまったらどうしよう、と心配になった。そこで、ちょっとかわいそうな気もしたけれど、切って食べてみた。
果実って大きさじゃないんだ。実のところ、ぎゅっとパインの味が凝縮されてみずみずしくて、ほんの少し食べただけで満足してしまう。それに切り落とした果実の頭が、まるで王様の冠みたいで、そのまま捨てるには忍びない。
ミヒャエル・ゾーヴァ画伯の挿絵と、アクセル・ハッケ作の『ちいさなちいさな王様』という絵本のなかに登場する、親指くらいの王様が、黄緑色の鉛筆の芯で七つのとんがりのある王冠を描く。本当は黄緑色で王冠を描くなんて、思いの黄金色ではなかったのだけれど、ないものはしかたない。
それでも描き出したら夢中になってしまって、最後はまんざらでもない様子で「これはな、銅が酸化してこういう色になったのだ」と胸を張る。
それは…The king of rainwater pipe…雨樋の王様と呼ばれた十一月末王の冠なのだそう。わが家でも王様を育ててみることにした。 - 7月10日
- 毎年夏休みにカリフォルニアからクインテッセンスを訪れてくれるsayoさんが、到着して一息つくと、さっそく外へ出て、デッキわきの格子を這う葡萄の樹を眺めて「あ、葡萄がなっている」と感動していた。私がデッキの屋根の梁に手をかざして「来年の夏はこのあたりまで伸びる枝から房をもいでね、ここに腰掛けて食べましょうよ」と言うと「えっ、そんなに伸びたら素敵ぃ」とよろこぶ。果たして、どうかしらね。若干不安は残るものの、このごろの成長ぶりには目を見張る。
春に鉢植えから土に植え替えて、まだ周りの様子見るごとく、おそるおそる蔓を伸ばし、やがて風に揺れる涼しげな葉を重ね、ついに花芽を付けた。そのうちのいくつかは枯れてひからび、生き延びたいくつかが実になった。ただでさえ少なめのところを、さらに思い切って半分に剪定することにより、残りわずかの房の実を太らせて、熟させようと企てる。
そろそろかな。袋がけをしなくちゃ。このあいだから、鳥がちらちらこちらを見ているのに気がついていて、早くしないと食べられてしまうかも。かといって時期を早まれば粒が十分大きくなる前に陽の光を遮ってしまうことになる。とにかく梅雨が開けてからでないと紙袋も濡れて破れるし。でもそのあと台風が…なんて頭を過るさまざまの雑念が少しずつ消え、今こそだねっ、という日が来るものなんだ。 - 7月20日
- 如何せん、いつ何が起きるかわからないような日々のなかで、目のあたりにしたことも、遠く知り合いの住む地で起きたことも、去年、一昨年、一昨々年に起きたことも、だれもが心の中でその悲惨さを追体験しているかのようだ。「大丈夫ですか、何かできることは?」最近は携帯メールで定型文としてすぐに出てくるこのフレーズは、いかに頻繁に送信したかの証でもある。だからといって、今すぐにはどうしようもなく、ああ、もう大変だよね。あのとき、ただ変わり果てた世界を呆然と見つめている自分がいて、それをまた見ている自分がいるような感覚だった。
ボブ・ディランの「ハードレイン」という曲は、暗く恐ろしく、厳しく悲惨なできごとを、まさに夜通し激しく降る雨のように、これでもかこれでもかと吾が子に問いかける。そしてそれを、先のノーベル賞の授賞式では、出席しなかったディランの代理としてパティ・スミスが滔々と歌っていた。会場の誰もが降りしきる雨のなかにいるようだった。
そんな黙示録のような詩のなかにさえ、I met a young girl, she gave me a rainbow…宝石のようにきらめく一行がある。そのレインボウというひびきの美しいこと。今年壁にかけたカンタの気の遠くなるような刺繍の、本当はペイズリーなんだけれど、スペードに見えるパターンのなかにたったひとつだけ、レインボウの色糸が使われている。おそらくはこの作者の人生の、ほんの束の間のきらめきを想像して、そのフレーズを口ずさむ。