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自分以外のものの為にスペースを
 旅にでて、ひと昔につくられた庭を散策するのが楽しみだ。洋の東西お国を問わず、ちょっとしたお屋敷の庭には、住人以外の、例えば毎朝おしゃべりをしにやってくる小鳥とか、木の実をかじりにくるリスなどがくつろげるようなスペースが設えられて、それが全体に何ともいえぬ優雅さを添えている。
小鳥のままごとのようなふるまいを見ているうちに、いつしか私たちの心もほぐされてやわらかな気持ちになる。宵にキャンドルを灯したり香炉を置いたらすてき。
 それを風情というのだろうか。環境として私たちを包む空気の魅力や気品が備わっているのといないのとでは、場としての価値に天と地ほどの開きがある。diary photo
 もちろん山へ行けば樹齢何百年という老木が優雅な枝を広げて、その木漏れ日を手のひらに受けて、苔の匂いを深呼吸して癒されるが、いうなればそれは自分が山の懐の深さにもてなされている立場だ。周囲から隔離されたり建物に隠れるように覆われた庭は、その逆の関係になる。
 場を所有する主が自分以外のものの為にスペースを空けて…open your door and space for the breath of life. 目的以外の無駄をあえてこしらえておく。そのように設えるのが万物への愛なのかも。

11月10日
 いつかは旅してみたい古都の一つにイエメンのサナアがある。建築雑誌で見たその都市はおとぎ話のようだった。チョコレートクッキーのような建物の壁が風景をなし、窓やテラスの凹凸は白いアイシングで縁取りしたように。その一角、洞穴のような茶屋でチャイを飲みながら日がな一日おしゃべりしてくつろぐ老人たちからおだやかな笑顔が消えて今や危機にさらされている世界遺産リストに加わった。diary photo
 美しい都市や遺跡が爆撃されてなくなってしまう。あったはずの風景が一夜のうちに姿を消し、そうすると、あれは現実だったのかそれともまぼろしなのか、と。その狭間での混乱は、だまし絵芸術家マウリッツ・エッシャーの絵を前にした印象に似ている。細密に描かれた不思議な建物に意識はすっかり引き込まれ、そこにある階段を辿っていた。昇る階段はいつしか降りる階段になってしまう。あれれっ。
 シュルレアリズム、超現実と呼ばれる芸術の時代があった。ジョルジュ・デ・キリコの絵のなかの、強い光のあたる白い回廊と、不気味なほど黒い陰を湛える建物の狭間を、丸い輪を転がしながら走りゆく少女のシルエットが強烈に脳裏に焼き付いて消えない。
 インドの古都にても、このような建築を目の当たりにしてふたたび、あれれっ。

11月20日
 もうすっかり朝夕は冬の寒さに震えて、おとといあたりから湯たんぽの世話に。朝は足下の湯たんぽをベッドから出し、ぎゅっと抱きかかえ、口を開いて冷めた湯を流す。逆さまにして残ったしずくの滴りがなくなるのを待って、吊るして乾かしておく。一連の行為をこれからずっと寒さの緩む朝がくるまで繰り返す。
 冬の風物というほどのものではないけれど、寝る前にやかんにいっぱいの湯を沸かしていると、鼻歌まじりの冬ごもり。今頃カシミールは寒いだろうなあ。diary photo
 どうして12月が近づくと思い出すのだろう。カシミールの庭に咲くダリア。なかで見たこともないような澄んだコーラルピンクの大輪の花に引き寄せられた。ゴージャスな花のひと塊がほろり崩れて、こぼれ落ちた花びらは掃き寄せても冷たい空気の中でいつまでも色あせず。
 繊細でふっくらとぬくもりの籠るカシミールショールの織元を訪ねたときに、案内してくれた人が「この厳しい気候と険しく美しいヒマラヤに抱かれた環境が人々をこういう仕事に向かわせる」と話してくれた。
 そのときはピンと来なかったけれど、朝食後に夫がスイス時計職人の、緻密で繊細なムーブメントを手で作る話をしてくれて「あの厳しい冬の寒さと美しい自然の環境が人をそういう仕事に向かわせるんだと思う」と言っときに、あ、と。